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サムネイル29回

ミンダナオ海 シキホール島紀

 

やわらかい風がリーフエッジに、小さな波をたてているものの、凪である。

母船から、ダイビングの合間をぬって、一時間ほどテーンダーボートで走ってみたものの一向に風景は変わらない。浅い珊瑚礁が青緑色の海に延々と続き、それに沿うような形で白い砂浜が延びている。

その向こうに、10m以上の高さがあると思われるヤシの木の林があった。

「背の高いヤシが生えているから、一年中、風はやわらかいんですね。」とガイド役のJツアーズの酒本さんに聞いてみると、「去年は、何百年に一度という大型の台風が来たらしくて、何百という家がこわされたそうです。でも、ヤシの木は折れなかったみたいですね。」

地球上どこでも異常気候ということだろうか。

かつて、この国では、熱帯雨林のほとんどが、日本向けの下等建築材として、伐採され、ダイナマイトフィッシング(ダイナマイトを海に投げて魚を取る方法)で、珊瑚礁が壊されてしまった。最近になって厳しい罰則とともに禁止になったものの、不法伐採や、密猟は後をたたないらしい。

 

 

いくつもの小さな一人乗りのトリマランカヌーがういている、V字型の船体に左右2本づつ、腕が伸び、それにフロートがついているこのボートは、風や波に結構強く、人力で動くものとしては、かなり速く、ミクロネシアから、ニューギニア、フィリピン、台湾のラン島まで、ほぼ同型のカヌーが使われている。これらの島には、今もイモ(サツマイモや米籾を少量必ず持って出航する風習があり、これは、八重山・宮古でも同じである。この風習は旅の途中に、島々にそれらを植えて、帰りにそれを食べながら帰ることや、遭難した時に漂着した島にそれを植えて、作物を作り、命を長らえるというところから来ている。古代この小さなカヌーで海道を行き来していたとは、考えにくいが、このようにしてサツマイモが沖縄を経て、日本に至ったに違いないだろうし、ベトナム原産の米にいたっても、古代日本列島に入ってきたふしもある。(もちろん、朝鮮半島説は有力であるが)ミクロネシアや東南アジアの島々から、内海に近い海街道は、島づたいに北上するものであっただろうし、一方僕の住んでいる八重山諸島には、ニライカナイ、パイパテルマ、といった南島楽園伝説が仮面文化と共に伝えられ、今もなお、民話や信仰として生き続けている。              

 

 

 

 

たぶん魔除けで掲げられている

フカヒレ

琉球の歴史をひもとくと、琉球王朝によって八重山討伐が行われる以前の八重山は、自由貿易的気風が、与那国・竹富島・石垣島に見られた。八重山からみても九州に行くより、フィリピン・ルソン島へ行く方が、はるかに近く安全であったに違いないし、宝貝経済から見ても、ちょうど古代の南島文化の北限に八重山諸島があり、沖縄本島が中国文化圏にあったのでは、あるまいか。また、鎌倉時代の終わりに幕府に絶望した北九州や四国の海軍族が倭寇となり、この海道を通って東南アジアに出没したことは、歴史の教科書に書いてあるとおりである    

かつて国などという意識の無い時代、人々は自由に行き来したり、新しい島を求めて北上したであろう。それらが日本の祖となった。一方、朝鮮半島から稲の文化を持った弥生人が入り、2つの祖が交じり合って、日本民族になったわけで、島には本来、国という概念はなかった。国という概念を持っているのは、大陸に住む民である。たぶん日本も大和王朝以前は、南島の民と同じように、国という概念をもちあわせていなかったであろうと推測される。

古代において、島は島であって、国ではない。島から島へと海道が伸び、太平洋の島々はこれらの海街道で結ばれたに違いない。これらは、大きな文化圏をなしていた。しいて言えば、環太平洋南島文化圏なるものが、あっただろう。

まあこんな自分本位の仮説をたてながら、島々を旅していったのである。

 

 

母船から一時間近く走ると、ちょうど潮がリーフに沿って動いている所があったので、短い時間であったが、キャスティングを始めると直ぐに、林さんのルアーにバシャッとヒットした。あっというまにランディングして、すぐにリリースする。直後にもう一度ヒットしたが、残念ながらはずれてしまった。

二時間ほどルアーキャスティングをして、ボートに戻った。ダイビングの間にルアーをやろうというものだから、時間的にもちょっと無理があったが、一日目のバリカサグ島では、上陸して、子供達の大歓迎にもあったし、2日目、アポ島の断崖ではギンガメアジの大群に遭遇した。

最後に訪れたカビラオ島では、ハンマーヘッドシャークのポイントでイソマグロを狙ってみたが、みごとに空ぶられたりした。

1ケ月後の3月に、再びこの船に乗ってスールー海に、今度はGTを求めて出航する。

テンダーボートや、施設のチェックに、Jツアーズの酒本さん、友人の林さん、遅沢さんが付き合ってくれた。3食とも大変おいしい食事、ビール、そして船室にあるバナナの大きな房も、帰りにはすっかり消えていた。

中学、高校と西洋や、中国の方ばかり見る教育を受けたせいか、今回のフィリピン・ボボール海峡からミンダナオ海に至る船旅は、島々を結ぶ海廊、そして目に見えない海街道の存在を再認識させてくれた。 

帰りに、セブの空港の売店でミネラルウォーターを買った時、小声で「ダクハング、サラマット」(ありがとう)と言ってみたら、若いねーちゃんが「ワライ、サパヤン」(どういたしまして)と答えてくれた。

我々のために用意された夕げ。