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サムネイル38回

パラオ諸島釣紀

 

熱く美しい海である。
体ににじんだ汗が、ポタポタと顎や鼻先から落ちる。ジリジリと照りつける太陽光は、白いものをさらに白く、青い海をさらに青く見せている。
ポッパーごと押し上げ、魚体が空中に踊り上がるようなGTのバイトが、頭の中でぐるぐると廻っているけれども、僕はバッティングセンターのピッチングマシーンのように、もくもくとルアーを白く砕けるリーフエッジに向かって投げ続けている。
ヤシの林が覆い被さる砂浜の木陰で食べた昼飯は、すっかりと消化され、色の濃い偏光のサングラスの中でさえ、目を細めなければならない、白色の午後の斜陽は、南洋のものであるに違いない。
熱光を十二分に吸い込んだ、顔にかすかな、だけれども圧力を伴った空気を感じたとき、僕は我に返り、後ろを振り返った。あまり大きくない雲の塊から、グレーの雨が音も立てず海に降りている。そしてその帯に、半円の2本の虹が絡んでいるのである。

「パラオで青い海と虹は、名物で」とガイドの久米君がはにかむように言う。
虹は、バラオで見ても、日本で見ても、同じように見えるに違いなく、かつてこの島々で戦った多くの日本兵が、この虹を見て、故郷の山を、野を、川を思い出したのではあるまいか、と思うとルアーなど投げる気が起きなくなってしまった。
しばらくすると虻は消えて、また無風と熱光だけが蘇ってくる。
「鈴木さん、投げないんですか?」と、同行の橋本景君が肩にさわった。
僕はうつむいて、クーラーボックスの中のウーロン茶をガブリと飲んだ。

 

 

若い人は南の島イコール釣りリゾートであるのだけれど、僕は南洋という言葉とともにサイパン、グァム、トラック、パラオ、ガダルカナル、ラバウル、レイテと玉砕の島を思い出してしまうのである。

戦後の生まれであるが、身近に感じるのは、僕だけであろうか。
パラオは遺跡の島である。
ストーンフェイス(石顔)が並び、メソポタミアあたりの文様によく似た腕リングがあったりすると、僕などは、太古に海の民が初めて渡ってきた島の一つであるまいかと思うのである。
一万年前に農耕が行われた最古の場所はチグリス・ユーフラティス川沿いのメソポタミアと、カンボジア、マレーシア、タイの熱帯アジアだった。農耕は当然、集団と貯蔵を作るわけであるから、すでにこの頃、小さな舟があったと推察される。
その後、妃元前4000年ごろ、集団が都市に変化して、メソポタミア、インダスといった文明が栄えた。これらの文明は、大型船で結ばれ、それは熱帯アジアにたぶん存在したであろう、大文明にも海道があったに違いない。
母なる大地は、女性が子供を生むことと結び付けられて母神神話は、熱帯アジア文明の基本的宗教概念になったはずである。そしてインドネシア、ポルネオ、ミンダナオの大島から、大型船をもって、海の民は漕ぎだしたのではあるまいか。
船はバラオ諸島に着き、そこに海の民の古代文化が栄えた。そして太平洋の島に拡がっていった。
余談であるが、なぜこれらの島々で太った女性が美しいとされるかというと、古代母神神話からきている。女性の体内に多くの富が宿っていると考えられており、太った女性はそれだけ多くのものを持っているわけである。
「こんど、ストーンフェイスと川の中の釣りに行きましょうか」と僕が言うと、
「何度か川は入ったけれど、鈴木さんとならいいですねェ」とニコニコと久米君が答えてくれた。
久米君はパラオに来て、6〜7年になるらしい。フィッシングガイドをするかたわら、ルアーフィッシングでも、なかなかの腕前であることは言うまでもない。
まだ若いが、そのまじめさ、海や釣りへの取り組み方は、このパラオの海をいつまでも美しい状態にしていく上で、この人は必要であると僕は思った。

  

 

久米君に小笠原で試した海の中でりリースする方法を教えると、すぐに実行し始めた。
「このあたりでね、この間、105Lbのイソマグロが釣れたんです」とエッジのすぐわきの深みに指をさす。
僕は、オリジナルの10ozのジグを付けて、沈めたのだけれど、100mを過ぎても底に着かない。
「150mぐらいで着きますから」とラインを見ながら、久米君が言う。
「久米君ちょっと、僕の代わりに」と、やはり同行のおじさん田村さんがいうので、久米君が途中まで、ジグを落としているロッドを持たされてしまった。
1時間も経っただろうか、そろそろ帰る時間になった頃、久米君のロッドが大きくしなった。
「田村さん、田村さん、かかりましたよ」と律儀な久米君がファイトをせずに叫ぶのだが、昼寝を決め込んでいた田村さんは、いっこうに起きない。
ドラッグ5kgのリールのラインが出始めたと思った時には、すでにラインはそのスピードを増し、とめどなく、手のほどこしようもなく、300mすべて出されて切れてしまった。
「イソマグロですよ。鈴木さん、すぐに落としてください」と久米君はガイドに戻り、僕に言う。もちろん僕はすばやく 10ozのジグを落として、底をとって20〜30 m上げてきたとき、ズーンという鈍いアタリに襲われた。
「来た、来た、鈴木さんイソマグロですよ」と久米君のアドバイスが飛ぶ。
鋭くアワセて、きっちりしたポジショニングをすぐにとって、魚を走らせないようにする。それでもジリジリと20mほど出されたが、きっちりと止めることができた。
「止まった」と久米君は、ラインの伸びている海を見ている。
「船どうしますか」と聞くので、エンジをかけさせ、一応スタンパイをさせる。5分かけて30m巻き取れるのがやっとである。魚は再び10mぐらいラインを出し止まる。
10分、膝をおとしてフットポンピングで、ゆっくりゆっくりとラインを巻き取るが、魚はまだ70〜80mのところなのである。20分後、あと20mのところまで、魚は浮いた。
「久米君、まだ魚は見えない」とちょっと言いながら、最後の勝負をかけようとして、リフティングをする。そのとき、フッとロッドは真っ直ぐになり、PEの5号ラインは、ゆるい風によってかすかにたわんだのである。
「えっ、ラインブレークですか?」と久米君が、僕の顔を見て言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕は黙って、あと少しのラインを巻き取ってみた。スペーサーリーダー用に使っている22号、フロロカーボンラインは、スッパリとその限界点で切れている。
「歯じゃないみたいネ。傷があったのかもしれないね」と僕が言うと、「惜しかったですねェ。あともうちょっとだったのに、とんでもない大きさのイソマグロですよ」と久米君は慰めてくれる。
'88年に、僕は150gのジグを使ったジギングで、40kgの近いGTを釣り上げたものの、苦釣の経験を持っていた。その苦釣は、その後の釣法に大いに活かされたことは間違いない。30分近いファイトなど、それ以来であった。
「まあ、逃がした魚は大きいから」と田村さんが、ポンと肩を叩く。
「鈴木さん、また来ようよ」とやはり同行の林さんも言う。
「久米君、じゃ帰ろうか」と言うと、久米君はニコリと笑った。

パラオの海はいつしか黄金色に変わり、マッシュルーム型の、小さな岩に近い島々の間をポートはかなり速い、スピードですり抜けて行く。僕はこの海、この島々、ここの魚が、大好きになった。
「また来ますよ。またガイドしてくださいね」と空港まで送ってくれた久米君と硬い約束の握手をして、日本に帰った。

 

タックル

ロッド: B.G. TUNA65、 B.G. JACK、 GIANT88
ルアー: ロングペン100、 K-ROG110

リール: PENN9500ss、ダイワ EXi6000

ライン: モーリス・アヴァニー50Lb

取材協力

ベラウツアー