43回
カガヤン諸島釣紀
豊かな内海、スールー海の島々から
蒸し暑い熱気と、人々のザワザワとした活気が、飛行機を降りると同時に押し寄せて来た。フィリピンはどこに行っても人、人である。それだけ経済的には若い国なのであろう。 「風がちょっと強くないですか?」とマニラで合流した大嶋君が、風になびくフィリピンの国旗を見て言う。 「まあ、こんなもんじゃない。」とそっけなく答えたものの、僕は東京に住んでいた時は、よほどでない限り、風を意識することはなかった。それが、南の島に住んでみると、毎日のように風をきにするし、否応なく自然の色々な要素が生活の中に入り込んでくるのである。 |
パナイ島イロイロ空港から、コーディネーターの久保さんが合流して、メンバー8名で昼飯を食べて、すぐに空港から出発した。久保さんは、スールー海を中心としているプロのダイビングガイドでもある。 「昨年は、一悶着ありましたよねぇ。」とアップデッキで久保さんが遠のいていく煤けた町並みを見ながら言う。今年はすんなりと出航許可がおりたらしいのだが、今回の釣りにWWFの方からクレームがついたらしい。 「南北ツバハタで釣りをやらないでほしいとWWFの方から言ってきたんです。」 「世界遺産でですか?」とぼくは複雑な顔になった。 「そうなんです。あそこはカツオドリの繁殖地だから、釣りはダメだと言うんです。ダイビングはO.Kで釣りはダメっておかしな話ですよね。」 「オーストラリアのね、フレーザー島という、やはり世界遺産の砂の島があるんですけれどね、あそこは釣りはO.Kです。何を護るのかということを、はっきりさせないと非常にぼんやりとした保護か、ヒステリックな保護になります。しかし、WWFがおっしゃるのなら今回は仕方ないでしょう。」 「カツオドリが島のいたる所にいたんです。そのタマゴを狙って人間達がやって来る。取り過ぎると鳥が少なくなった。少なくなったから世界遺産というわけでしょうか?」と久保さんの話は続く。 「ダイナマイトフィッシングや薬物を使って魚を捕っている人がいる以上、きっちりとした規制や取締りは必要ですが、人間が自然と共に生きている以上、特定の地域の過剰な保護は、却って他の保護されていない地域を破壊してしまうことになってしまうと思うのですが・・・」とぼくは言って言葉を切った。 釣りをしない人にとって、釣りは魚という食料を得る手段と見る向きがある。確かに全部逃がしてやっているからいいんだというわけではないが、なんとなく割り切れないものが心に残った。 |
翌朝早く、あまり揺れることなくカガヤン諸島の北の島、ドントナイ島に着いた。25フィートの小さなボートを4艇降ろして、それぞれ2人ずつ乗って釣りを始めることにした。とりあえず6時〜9時まで、朝食の前に狙ってみようという企てである。 こじんまりとしたドントナイ島は、背の高いヤシの木が低くこんもりと茂る潅木の中から飛び出すように、にょきにょきと立っている。ヤシの葉で葺いた屋根、竹や枝で編んだ高床の小屋が、その中に軒を連ねている。リーフの中の穏やかな浜には、小さなアウトリガーカヌーがここぞばかりに並んでいる。南の島の小さな子供達が、こっちを向いて手を振っているのが見えた。 アウトリーフを北東の風に逆らって上がっていくと、潮がインリーフから流れ出ているポイントに出たが、海底の地形がかなり複雑でヒットしてからのボートのフォローが必要である。 「鈴木さん、やばそうですね。なんか、デカイのが出そうですよ。」と大嶋君はやる気十分である。流れ出しを150mぐらいポッパーで攻めてみたが反応がない。諦めずに、もう一度むなしくチャンネルに戻って繰り返してみた。 「大体ね、居る所は決まっているからね。」とぼくが言うと、「そうですよね。」と大嶋君はとりあえず同意してくれた。 朝焼けが終わって少しずつ気温に熱気が加わり、ベットリ、ネットリと蒸発しない汗が体ににじんできた。遠くで既に上保、高橋組がファイトしているのが見えた。 |
あくまでも青く、透明なリーフは大きく砕ける波が時たま、白いカーテンを引くけれど、ルアーの航跡は一直線にボートへ戻ってくる。前で投げていた大嶋君のポッパーが白い爆発音の中に消えると、ラインが飛び出すと共に心地良くリールのクリック音が響いた。 ボートですぐにフォローし、次々と現れる根を交していく。大嶋君は思い切ったリフティングを試みるが、魚はなかなか上がって来ない。 「なんかデカイですよ。」と興奮は続いている。5分後、深みに追い込まれた魚は、水深20mの所で、横になるのが見えた。濃青色の中に滲んだ白っぽい影は、やがて大きく廻りながら巨大なGTの白銀色の形になっていった。 ぼくはショックリーダーを引いて、魚を浮かせて空気を吸わせてから、尾の付け根を持って一気にボートに引き上げた。 「こんなサイズ初めてですよ。ありがとうございました。」と若者らしい爽やかな喜びをぼくに向けた。 「自分でリリースしていいですか?」と大嶋君はなかなか持ち上がらない重い魚にてこずりつつ、、やっとの思いで海に返してやった。30kgオーバーのGTである。 |
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マザーボートに使ったサザンクルーズ号350tはエアコンのきいた10室の客室と、いつでも使えるシャワー室が5つも付いている。キャビンルームでは、バーがしっかりあって、果物や飲み物がいつでも用意されている。 早朝2時間、GTを狙い、シャワーを浴びて朝食をとり、また2時間やってシャワーを浴びて昼食をとる。2時ぐらいから夕方一杯まで釣りをするのであるが、釣りの時間は、かなり一日の中で長時間を占めるのである。 夜明け前に久保さんが、ぼくを起こしに来た。 「ヘールボップ彗星が、そろそろ見えますよ。」と双眼鏡を渡してくれた。 「北東の方向に、ぼんやりと尾を引いて光っているでしょう?」と指をさす。 「10億キロの彼方からやって来るんですよね。」とぼく。 「彗星の故郷はそんなに遠いのですか?」と久保さんは天を仰ぐ。 「銀河のCDみたいな円盤を、太陽系が上下にゆっくりと動くんです。そうすると、何らかのきっかけで力のバランスが崩れ、小天体が動き出す。それが太陽の近くを通ると、太陽風を受けて、光の尾を引くらしいですよ。」とちょっと知ったかぶりでぼくは答えてしまった。 「2、3千年期で回っているんでしょう、次に見られる人類はいるんですかね?」と久保さんは遥か遠くの彗星に目をやった。水平線より少し上ぐらいに見えていた彗星も、やがて柔らかい朝の光の中に消えていくと、変わりにゆっくりと薄紫色の雲に似た光が、どんどんと夜の闇を切り取っていく。 |
「前から聞きたかったのですが、鈴木さんはどうして、ここまで来て大きい魚を釣るんですか?」と久保さんは話を変えた。 「釣りはね、大きい魚を釣るだけじゃないんです。苦労して大変な思いをして大きな魚を釣る。この大変な思いに大金を出してね、なんで俺はこんなシンドイことをしているんだろうなんて思いつつ、魚を釣る。危険と遊びと冒険の結果が釣り上った魚となるけれど、釣れない時だってある。むしろ釣れない方が多い。釣竿を持って旅するところに意義もあるんです。旅をして、大小どうでもいいけれど、その一見無駄なことがね、心の抑揚になって死ぬまで楽しませてくれる。だから、しんどい釣りほど後が楽しいですよ。」とぼくは釣りをやらない久保さんに答えた。 |
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釣りをして逃がしてやることを、無駄なことという人は多いのだが、人間は山に登ったり、旅をしたり、恋をしたり、花や絵を見たり、一見無駄なことの中で生きているような気がする。 人間にとって無駄がいかに重要であるかは、周知の事実である。つまり、釣って魚を逃がしてやるという行為は、自然界の食物連鎖の法則から外れているけれど、現代に生きる我々の心には案外必要なことかもしれないと思っている。
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ガラガラとフィッシング用のボートを海に降ろし始めたリヤーデッキに、仲間達がタックルを持って集まり始めた。 空は薄紫色から一気に見事なオレンジ色の色調が支配し始めた。けたたましい船外機の排気音が、一層刺激的に朝の訪れを告げた。そして、また僕達は釣竿とルアーを持って、ボートに乗ったのである。 |