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サムネイル64回

トカラから南国宮崎へ 前編

 

 

 

明け方のトカラ
午前4時に突然、部屋の蛍光灯が全部つくと、ボートは速度を落とし始めて、縦揺れよりも横揺れが激しくなってきたことが判った。
「おはようございます。15分で着きますよ」と船長は事務的な言葉で朝の訪れを告げた。
4〜5名の小さなグループに分けて、それぞれ違う磯に乗せる。暗い海に突然サーチライトの光で黒々とした岩が浮かび上がるが、暗闇に黒い岩であるから、照らしたところで、岩というより影のように見え、砕ける白い波のしぶきが妙にその白さを強調しながら、ザアーッと引いたり、上げたりを繰り返す。
60ftクラスのボートの磯付けだと、多少の波でもへばりついて、びくともしないのだけれど、それも船長の腕が相当なものだろうと感心しつつ、前の組が岩に飛び乗って行くのを見守っていた。僕等の組が飛んだのは三番目であった。メンバーは広島の割烹むつごろうのオヤジ、パワフルな飛ばし屋マッチョ兄イ、博物館のむっつり博士君、そして僕の4人である。以上これは、僕のつけたあだ名であるけれど、残念ながら写真がない。

 

広島CATSと遠征船
鹿児島県の串木野の港へ着いたのは、大雨の中であった。夕方の雨は、ことのほか激しい気がする。南国はそれこそ、バケツをひっくり返したように雨が降るけれど、薩摩のそれは、とめどなく、いつやむのか判らないのだ。
太古から、日本の中でも南九州は、独特の文化圏であった。文字の無かった邪馬台国以前は、中国の古文書に頼る以外、解明する道は無いけれど、このあたりから宮崎にかけては、混沌とした神話の世界が広がっているのである。
広島のルアーショップCATSのメンバーが合流すると一気に賑やかになる。今回は、そこの貫地谷店長が幹事である。この人は、お好み焼き、生ガキ、それにカンジヤと言われるほど、味のある顔と、なんといっても特徴のある言い回しを使ったトークは、釣り師たちの間で広島一番の名物と噂されている。
ともあれ大雨の中、20数名はボートの中に詰め込まれて出港した。僕の寝床は、地下1階と言おうか、船底1階にあって、立つことはできないが、座って、寝ころぶことは出来る。床のビニール貼りのクッションはなかなかのもので、バタバタというフロントバウ特有の波の叩きにも、体にジンジンと来ない優れものである。出港して間もなく、そのバタバタは始まったけれど、冷房の効いた、なんとも狭苦しいというか、一切の贅沢を諦めた空間が、居心地が良くなってすぐ眠ってしまった。

 

ムシゴローオヤジの掛けた大魚
まわりが少し明るくなってくると、皆が一斉にポッパーを投げはじめた。オヤジはゆっくりと、例の貫地谷さんから借りた10ftのGIANTを取り出すと、しずかに磯の隅に立った。僕の視界の左目の隅に影が映る程度であったけれども、雄叫びのようなオヤジの声が聞こえたのは、直ぐのことである。リールが金属音の悲鳴をあげて、ラインが飛ぶように出ていく。ロッドがラインの方向に倒れたままになり、オヤジはそれでもロッドを起こそうともがいていた。皆がオヤジの所に飛んでいった時には、すでに手のほどこしようの無い状態になっていて、ラインブレーク。
「でかかった!」と、つぶやくオヤジはなんとも憎めない。マッチョ兄イも僕も「なんで俺に掛からないんだ!」とぼやこうしたが、言葉にはならなかった。
その内、遠くでオヤジのルアーが魚から外れて浮いたので、なんとかキャスティングで僕がかけて回収した。その次が直ぐにむっつり博士君にヒットして、ランディング。小さくてもGTはGTであったが、僕は写真を撮るのを忘れてしまった。



痛恨の肉離れ
午後に入ると海が相当シケてきたので、ボートに避難することになった。磯に見事にボートが着いて、荷物を乗せる。最後に一回りと、岩の上をピョンピョンと飛び回って、チェックをし始めた。脳の隅に残っている若い時代の記憶が、そうさせているのだろうけれど、体が付いていけるわけがない。何個目かの岩を飛んだ時に、”ブツッ!”と鈍い音が左ふくらはぎのあたりでしたと思った途端、カクンと簡単に転んだ。かろうじて手袋をしていた手で岩にしがみついて、落水は免れたものの、次の瞬間、脳が蒸発するような痛みが走った。それでも僕はなんとか船に転げ込んでから、まわりを見て、誰もいないところで口を抑えてから、わめいた。

 

 

温泉のオジイ
中之島の西の港に入って、近くの温泉へ行くことになったのだが、徒歩10分の距離を、弟分の松本君に付き添われて、僕は杖をついてトボトボと歩き始めた。
温泉小屋は、海岸のゴロタ石の間と堤防との間を、うまく利用して作られていた。島の人たちが、かなりきっちりと手入れしているらしく、清潔感が漂っている。外の雨が、激しさを増しだすと、所々から湯船にポチャッと雨の雫が落ちはじめた。イオウのかすかな香りと、ほんの少しだけど湯が白く濁っているところをみると、硫化系の成分であろう。不思議なことに足を湯船に入れても、ズキズキとはせず、却って痛みが取れてしまうような感じさえ覚えた。
「風情がありますねぇ」と松本君も若者に似つかわしくないが、感心している。「どこからきんしゃった?」とここの常連らしいオジイが尋ねる。石垣島だと答えると、驚く様子もなく、コクリと相槌をうった。石垣島がどこにあるのか、きっとわからないのだろうけれど、短い会話をすることで、挨拶代わりにしているのだろうと思った。
オジイはその後、ゆっくりとお湯からあがると、ゆっくりと服を着て、帰り際に僕の方を見て、安心する笑顔を見せ雨の中に消えていった。



釣りの合間のキャスティング大会
次の日、昼まで船の中で安静にしていたけれど、前日の温泉が効いたらしい。少し歩けるようになっていた。
12時に、僕はお弁当と一緒に皆のいる磯に登った。その日は、まだ前日のしけが残っていたので、全員で大岩にのぼっているが、釣れないらしく、皆ブラブラと暇そうにしていた。
「ネェ、鈴木さん、キャスティングを教えて下さいよ」とマッチョ兄ィが切り出した。僕がトカラ12という磯用大物ルアーロッドで教え始めると、周りに皆が集まってきた。松本君が隣で投げ始め、むっつり博士君がその隣にやってきて、皆でビュンビュンと始まると、魚そっちのけで即席の遠投大会になりだした。
ひととおり投げ方を教えたところで、
「ねえ、皆でキャスティング大会をやろうか? でね、平等を期するために、僕の作った竿以外でやろう」と僕は提案した。ちょうど、むっつり博士君が自作した長めのロッドがあったので、皆でそれで勝負した。若い人は覚えが速く、素晴らしいキャスティングを見せてくれる。
皆かなり飛び出して、どんどんと飛距離が伸びた。笑いや歓声がこだまして、どんよりした雲を吹き払い、青空が見えてきた。誰が一番だったかは想像に任せるけれど、やはり若者のすがすがしさや力強さは素晴らしいと思った。

 

 

ニヨン岩礁のイソマグロ
3日目、昨日までの南風がウソのように海はおだやかである。ニヨンという飛び飛びの岩が固まっている所があって、僕はその中の一つに渡った。風は無いけれど、ときたま入ってくるウネリが大きなしぶきとなって、舞い上がる。
「去年ねえ、40kgのイソマグロが、ルアーで釣れた所ですよ」と松本君は僕にポイントを教えてくれる。
「僕はその前の年にね、ものすごいのをかけて……」と話は続いた。
三投目に反応が出て、ロングペンの後に背びれを出した巨大なイソマグロがゆっくりと近づいてくる。時間をかせぐために、ルアーをドッグウォークさせて同じ場所でアピールを繰り返す。が、あまりに磯と近いために、魚の目と僕の目が合ってしまった。瞬間、反転して深い海の中に消えて行く。しばらくすると、今度はギンガメアジの良い形がヒットした。その後、何尾かが釣れたけれど、どれも小さかった。



毎年恒例の大会へ
「また来年、この月に鈴木さんも、絶対に来ますよね」
と貫地谷さんが笑顔で言う。
「それでね、頼みがあるのだけれど、2日目にやったキャスティング大会が、結構若い連中に受けてね、来年からFISHERMAN杯ってな形で、遠投の大会をやりたいのだけれどね。もちろん鈴木さんは来ることは決まっているけれど、どうでしょうね、協力してくれるかしら。そこで、FISHERMANのトカラ12 で競い合うのはどうでしょうね」と続く。
「僕の作ったロッドで、キャスティング大会とは、光栄ですよ」と僕は答えた。船は串木野に向かって帰り始めた。
釣果は、期待したほどではなかったけれど、自分で作ったトカラ12というロッドを1日中思う存分にキャストすることが出来たことは、一つの喜びであった。このロッドは誰もが使いこなせるロッドではなく、選ばれたアングラーのみに許されたロッドである。つまり技力、体力、気力というすべての要素をもってして、初めて磯で使えるのである。
串木野に戻ると、奄美の名船長、工藤さんが迎えに来てくれていた。来年4〜7月まで、石垣島近海のポイントをさぐってくれるのである。これは、広く考えれば八重山諸島にとっては素晴らしいことだと僕は考えている。
指宿で工藤さんと楽しい酒を飲み、僕は1泊して、鹿児島から宮崎に向かった。

 

 

使用タックル

ロッド トカラ12、GIANTU

ルアー S−POPl10、魚雷110、

CRAZY SWIMMER105

リール ダイワEX5000改造、

シマノ ステラIOOOO改造

ライン モーリス アヴァニ50Lb