トップページへimg

サムネイル65回

トカラから南国宮崎へ 後編

 

 

 

単線の特急列車
西鹿児島駅から日豊本線で宮崎に向かう。がらんとした車中は、僕の他に乗客はいない。

「列車の旅もいい」と心の中で思いつつ、久しぶりの日本らしい風景にひたる。木造の旧家、広がる田園、檜や杉の山々、雑木林、竹林、小川のせせらぎ、昔なつかしい風景がそこにある。

人間、普段、何気なく接しているものが、本来は一番大切なもので、それらから遠ざかってみると、その価値観はひとしおに感じる。
電車の車掌が来て、四方山話をしていった。単線の特急は結構あっちこっちに停まって、なんともいえない情緒がある。ともあれ途中、都城を通り宮崎に入った。

 

 

 

 

南国宮崎
宮崎県はかつて、南国宮崎といって沖縄が日本に復帰する前までは新婚旅行のメッカであった。

新婚旅行は一説によると、かの坂本竜馬が恋人おりょうを連れて長崎へ旅をしたことから始まったらしい。とにかく、その時代から新婚旅行は南へということらしく、明治に入ってからは、金色夜叉の熱海にはじまり、宮崎、沖縄となって、現在ではオーストラリア、モルジブ、ハワイ、タヒチとどんどん南へ遠のいて行く。

そのうち、21世紀は、南極へ行って、すっかりさめて、成田ナントカてなことになって……(失礼しました)。
とにかく、南国という名にふさわしい、巨大なワシントンヤシやフェニックス、美しい町並みと、南の町だなという作りを考えれば、わが石垣島よりも、よほど南国らしいのである。
思い起こせば、30年ほど前に大学入試が終わって、3月に1ヵ月間、九州を旅したことがある。

当時、東京から長崎行きの急行列車があって、九州周遊券なるものが学割で6000円台で買えた。僕はリュックに絵の具とスケッチブックをたたき込んで、一人で汽車に乗ったのである。
まあ、めぐりめぐって10日ほどたって佐多岬から石畳の日南海岸へたどり着いた。周りを見ると、新婚旅行のピンクのワンピースにくっ付いて、にやけていたアンチャンがたくさんいたことを覚えている。

1969年のことで、記憶はそこでプッツリ切れて、その次が高千穂に立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

宮崎から延岡へ
宮崎で知人に会ってから、よね丸の福田君が迎えに来てくれた。2人で、四方山話をしながら延岡へ向かう。途中、
「この川はねえ、耳川と言って、結構でかいアカメが釣れるんです。」と、幅の広い海に流れ込んでいる川の橋を渡りながら言う。
明治10年2月、西南の役は肥後、熊本で火蓋が切られた。初め優勢だった西郷軍は田原坂で敗れてから、ジリジリと押されて、5月に宮崎に入る。

しかし2ヵ月後、攻め入る官軍の前に、北へ北へと逃げ延びて行く。今、僕が車の中から見ている宮崎平野を敗走しながら、8月、延岡北部の和田越の戦いに惨敗した。
西郷軍は、上祝子・岩戸から九州山地を今度は南下し、鹿児島の城山で全滅した。

その後、宮崎は旧島津藩所領であった鹿児島県から独立して宮崎県になってゆく。
「あの浜が、神武天皇が船出した、美々津です。」と薄くけぶる砂浜を、福田君が指をさす。
「女は日向かぼちゃ、男はイモガラボクトと、宮崎の人を言うんですよ。神武天皇が美男美女を連れていってしまったからですかね。」と言って、福田君は軽快に笑った。

この地方の新民謡「イモガラボクト」の一節によれば、
「もろた、もろたよ、いもがらぼくと。日向カボチャのよか嫁女(ヨメジョ)」と、おおらかに歌い上げる。
素朴で気のよい宮崎の女性と、朴訥としてのんびりとした宮崎の男性のイメージが僕には沸いてくる。
カボチャは、中央アメリカあたりが原産で、16世紀に日本に入って来た。ポルトガル人によって、大分と長崎に伝えられた。宮崎では明治40年から栽培され、品種改良が重ねられて、今の甘くて美味しい日向かぼちゃになった。
イモガラボクトというのは、サトイモの茎のことである。中身がスカスカで直ぐに折れてしまう、体だけが大きくて、役に立たない男という意味にとられがちであるが、僕には何事にも動じない大男の方のように思える。ウドの大木と同意語と考えられているが、ウドは煮ると結構うまい。

 

延岡の達人
延岡に着くと、タイトラインという海のルアーとフライの店があって、そこに、渡辺貴哉君という、フライでは達人、海のルアーでは奇人がいる。

別名「100匹釣り男」と異名をとる彼は、なにしろ釣りまくるらしい。店は午後4時から7時までの3時間しかやらないが、早朝からお客のために山や海のポイントを探してくれている。
達人は言う。
「フィールドをね、いつもきちんと把握することが、一番のサービスですよ。なにしろ無駄な釣り具を売らなくてすむ」
さらに奇人に転じて、
「海はねえ、夜明け前が一番釣れます。だから明日は午前2時に出港します。となりの門川港から出て、四国近くまで4時間位… え?もっと早い方がいいですか…?」と続いた。
 恐るべき出発時間である。最近、夜更かしをしている僕にとっては、今日なのか、明日なのか、良くわからずじまいで、明朝、彼の言う夜明け前、午前2時に出港した。

 

 

四国の沖の瀬
午前5時30分、高知沖の沖の瀬に着くと、夜が明けだすにつれて、風が吹き出した。大東島の島の南で台風が発生したという漁業無線が入ってきたが、影響が出るには早すぎる。魚探で一通り、広い根のあちらこちらを探したけれど、波で魚の反応が見えにくくなってきた。
「大分から、一挺仲間の船が来るはずですがね。」と渡辺君が言う。
皆でジグを落としてみたけれど、1時間ほどやってもラチがあかない。

漁師の船が近くの島の方に見えたので、近づいてジグを落としたけれど、さっぱりであった。

その日は、表層の小シイラを釣ってあきらめて帰った。
次の朝は、テレビ宮崎の”てっちゃん”こと柳田キャスターがカメラマンとともに乗り込んできた。

ホットウェーブという若者向けの音楽情報番組に、僕のことを紹介してくれるらしい。渡辺君が気をきかせて、明るくなってから出港した。
台風が近づくと、1日だけこういう日がある。つまり晴天の海は無風である。
よね丸で、沖のゴミを探してキャストする。カンパチの小さいのや、シイラがどんどんと釣れたけれど、台風が進路を変えて近づいてきたので、2時頃、用心して帰った。
夜になって風は少し強くなって来て、明朝の海のルアーは中止となった。

 

 

南国のエノハ(ヤマメ)
「ねえ、鈴木さん、山へ行きましょう。エノハへ行きましょう。」と渡辺君がニコニコしながら言う。
「僕はフライで、鈴木さんはルアーでね。ホウリ川に行きましょう」
祝子と書いて「ホウリ」と読む。神職が川辺に住んでいたことから、呪(はふり)が変化したらしい。
延岡は五ヶ瀬川が有名であるが、町には4本の川が流れこんでいる。祝子川は、五葉、大崩山から流れ出し、わずか30qたらずであるが、みごとな渓流の美しい川である。川は麓の小さな山々から、可愛岳を蛇行して五ヶ瀬川に合流する。

和田越えと呼はれる、可愛の麓に広がる平地は、西南の役の最後の激戦地であった。戦いに敗れた維新の英雄、西郷は祝子川に沿って西にのぼり、大崩山の山中の農家に宿をとったという。

つまりこれから、僕が車で登る所を通ったことになる。
明朝、1時間ほど川に沿って走ると、道は急に細くなって断崖の間を縫うように走った。幾つめかの橋を渡った所で渡辺君が車を止めた。
「ここから、しばらく歩きましょう。」とリュックにお弁当、水など重いものを2人分、ひょいと担いで、彼は歩きはじめた。山を巻いて、かなり上流に出ると、見事なツルツルとした巨大な花崗岩が河原を埋めている。
「水量が少ないので、魚もちょっとしぶいですよ。」
しばらく釣り、登っていると、
「その上がね、プールになっています。ちょっと奥に深みがありますから、そこにエノハがいるはずです。

顔をみせないように、しずかに登って、ルアーをちょいとね……。」と言って、またニコリと笑った。僕は言われるままに登って、顔を低くして覗き込むと、細長い20mぐらいの小さな滝壺のたまりが見えた。
「鈴木さん、奥に投げて下さい。」と下から小さい声が聞こえた。ひょいとメッツの赤テントウムシのスピナーを投げると、小さな魚影が寄ってきた。チョンチョンと踊らせるように誘ったところで、コツンと来て、クイクイと引くけれど、グイグイとは引かない。
「釣れたよ!…」と手前にもってきて持ち上げようとしたら、バーブレスフックからスルリと魚が落ちた。キラリと光ったエノハは、みごとなパーマークが付いて、金色(こんじき)に輝いている。水滴が魚とともにあがり、魚が落ちると同時に丸いしたたりとなって、透明な揺らぎのように包み込んで、共に落ちた。
「美しい魚でしょう。」と達人は、今僕が見た情景を見ていたかのように言う。
「ええ、とても」と言って、僕は振り返った。
「昼飯にしましょう。」達人は胸をはり、またニコリと笑った。

  

 

使用タックル

ロッド YELLOW TAIL verticaL 4L、OCEAN65、DOLPHIN L&UL、KUIRAUL65

ルアー BIGEYE JIG28g、 WOOD PECKER50、 魚雷30、50、 LONGPEN30
リール シマノ ステラ3000、1000

ライン モーリス アヴァニ20Lb、バリバス4Lb

タックルと旅の問い合わせ

タイトライン0982-35-8455