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サムネイル76回

モルジブ釣紀行 後編

首都マーレの風景とムラクアトールまで

 

 

 

マーレのお横さん
クレドーリゾートで、夢から覚めたぼくは、朝一番で水上飛行機に乗ってマーレに戻った。飛行場には、いろいろとモルジプ国内の手配に協力してくれたコーディネーターの外山さんが、迎えに来てくれていた。披女はスキューバタイピングで世界中を回り、ついにモルジブに魅せられてしまった。そして、東京のOL生活を止め、ここに住んでいる、なかなかチャーミングなお嬢さんである。
「オルベリへの送迎ポートが、午後4時ぐらいですから、たっぷりと時間があります。一応、ホテルの部屋を取っておきましたが、たまにはマーレの市内見物でもいかがですか?」と誘われれば行かない手はない。
彼女がチャーターしてくれているドニーにカツオ君と乗ると、モルジブの人たちもどんどん乗ってきて、10名以上になってしまった。
「チャーターしたからといって、座席が空いていれば関係ない人でも乗ってくるのです」と呆れているぼくの顔を見て言う。
「ただですか?」
「そうです。お金はチャーターした人だけが払います。モルジブと言うより、イスラムの考え方だと思うのですけど、良く言えば、相互協力なんです」
「でも、わたしの会社がチャーターして日本人のお客様をお迎えに行って帰る時、お客様より先にどんどん地元の人が乗ってしまうことがあったりして、よく解らない時もありますが、逆に、急に飛行場に用事がある時など、どのドニーでも、いやな顔をせずに、すぐに乗せてくれます。だから、持ちつ持たれつが当たり前なんでしょう」
ホテルにとりあえず、荷物を置いて3人で町に出た。フィッシュマーケットに行くと、2〜3匹のバショウカジキが並んでいるだけで、がらんとして人影もない。
「午前中はもう終わって、売れ残っている魚があるだけですね。午後にもう一度来てみましょうか」

 

イスラムのお祈りの基本
10時をまわったところで、イスラムのお祈りの時間になったらしく、遠くの寺院からコーランの歌とも祈りともつかない独特の短音の継続した和音が聞こえてきた。
「働いている人もいますけど、みんながみんなお祈りをするわけではないのですか?」と訪ねると、
「心の中でお祈りをするのです。イスラムは形にとらわれないのです。重要なのは、お祈りをする気持ちが基本なのだそうです。だから、人々は働いていても、心の中でお祈りをしているのです」
路地に入ったところの2階に、小さな喫茶店みたいのがあったので入った。三角形や丸や印角形の揚げギョーザみたいなお饅頭がならんでいる。

外山さんが、全種類を1個1個取ってくれて、あれこれと説明してくれたけれど、それを書くと長くなるので、概略を言う。小さなカレーパイのようで、中に魚と野菜が刻んで入っている。具はパサパサしているけれど、カライやつは口から火を吹いてしまうぐらいカライのである。また、ここのミルクティーがうまい。エキスのような煮つめた紅茶に、黄色みがかった濃い哺乳類の何かのミルク、ザラメの砂糖がたっぷり入って、ちょっぴり油が浮いているけれど、なかなか濃厚な味がした。
「ここは、午前中のお祈りが終わるとみんな集まってくるのです。男ばかりで、女性が入っちゃいけないことはないのですけど、地元の女の人はめったに入ってこないみたいです」
「南の島のメンズクラブみたいな考えかたですね」
「みなさん、話好きですから、結構長時間ここで過ごすみたいですよ」
1時間ほどして外にでると、急にスコールが降ってきたので雑貨屋の軒下を借りていると、店の人が中に入れと言いに来てくれた。住んでいる人に案内してもらうと観光客でも違った町の風景を見ることができるのだろう。

 

のシルクロード
午後は外山さんが手配してくれたシャヒードという若い観光ガイドが来てくれた。ぼくは、モルジブ博物館が一番見たかったのだけど残念ながら休館であった。
ここには、イスラム以前のヒンドゥーの遺跡物が展示されている。つまり、インド思想伝来は、東南アジアへの海上ルートの通過点であるモルジブを通って、紀元前から5世紀前後にかけて広がっていった。ヒンドゥー文明の中で自然崇拝のヒンドゥー教、つぎに仏教へと替わり、支配階級の正当性を裏付ける宗教として使われたようである。

メッカで生まれたイスラム教は、7世紀から広がり始め、本格的な布教は12世紀に入ってからであるらしい。その時期はアラビアと東南アジア、そして中国に起きた大貿易時代と重なる。つまり、海のシルクロードというべき海道が、アラビア、ペルシャ、インドからモルジプを通ってインド洋を東に向かい東南アジア、中国、海上文化と完全に結ばれた。この道は、セラミックロードとか、スパイスロードと呼ばれるぐらい陶磁器や香料が運ばれ、やがて西洋列強も加わり大経済圏へと発展していくのである。

 

マーレの古井戸
大統領府に隣接した公園をぶらぶらと歩いていても、けっこう遺跡みたいな物が目に付く。
「イスラムの寺院モスクは、だいたいが他教寺院や遺跡の上に建てることが多いのです。何か特別見たいものがありますか?」とシャヒード。
「古い井戸が見たい」とぼくが答えると、近くなので行ってみようということに、すぐになった。

考えてみたら、モルジブの首都マーレは4km四方の小さな島だから、当たり前と言えば当たり前である。もともと、モルジブは古くから貿易船に水を売って栄えた。この水は、雨水ではない純粋たる地下水なのである。海水は、堅い石灰でできているサンゴ岩板の間を通ってくるあいだに真水に近くなるらしいということを確かめたいと思った。
井戸は、古い墓地の中にあって今も水を湛えていて「飲んでもいいですか?」とぼくが聞くと、「いいですよ」と言って長い杓ですくってくれた。
かすかな甘みがあるが、ちょっと硬いこしのある水である。
甘みは微量な塩であろうし、硬さは多量のカルシウムに違いなかろう。
うまいと思わなかったが、飲んでみてこういうミネラル分がたっぷり入った水が長い航海には必要だったのだろうと思った。

 

鰹船と市場
3時ごろに、魚市場に戻ってみると、鰹船が帰港したばかりで、打って変わって活気づいていた。
「船、見学できるように交渉しましょうか」とシャヒードは返事も待たずに、船に乗り込んでいく。

ぼくは船を持っているから解るけれど、知らない人が乗り込んでくることは、いやなことである。

まして、漁師はなおさらに違いない。しかし、すぐにOKが出た。甲板もハル(船体)もヤシ材で出来ている木造船に、鰹がきれいに並んでいて厚い幌がかけてあった。船長が2〜3匹ずつ丁寧に、市場に運んで、やはりきっちりと並べられた。
「さっき聞いたんですけど、一匹500円ぐらいするようです」とカツオ君。
「一匹50円の時もあるけれど700円ぐらいまで高くなるよ」とシャヒード。
「石垣とあまり変わらない値段の時もあるようだね」

 

モルジブのGTフィッシングの変化
夕方に、南マーレのオルベリリゾートに着いた。日本企業が経営しているので、ぼくは肩の力がぬけた。FISHERMANオーナークラブのメンバーは、真夜中のスリランカ便で日本からきて合流する。
「鈴木さん、先に寝ていて下さい。ぼくが、みんなの部屋割りなどしておきますから」とカツオ君が、ちょっと疲れのでているぼくを気遣ってくれた。明日からのポートの打ち合わせに、オーシャンパラダイスの事務所を尋ねてみた。「GTが少し少なくなってきたみたいで困っています」とマネージャーの上田清美さんが言う。
「もともとモルジブが多すぎるのですよ。少なくなったぐらいがぼくにはちょうどいい」
「どうしてですか、魚が多い方がいいでしょう」
「釣りと漁の違いはなんだと思いますか?釣りは、いかにむずかしく魚を釣るかで、漁はいかに簡単にたくさん魚を捕えるかなんです」
「だって、釣れないよりは釣れた方がいいでしょう?」
「確かにそうだけど、釣れすぎる釣りより釣れない方がおもしろい場合だってあるのです」
「ダイピングだと回遊魚やマンタが見られないとダイバーに怒られてしまいますけど」
「その辺が、釣りとダイピングとの違いでしょう」と言ってごまかした。
GTも少なくなり、型も小ぶりになったと言いたいらしい。いくら正しくリリースしていても、釣りによるポイントへのダメージは避けられないことはここモルジブでも同じである。

 

 

 

 

GTポイントの本当の保護
日本でのGTフィッシングの発祥の地は石垣島である。1988年にぼくがFISHER MANガイドサービスを作って八重山諸島全域をフィールドとし始めると、瞬く間に南西諸島に広がっていった。
今、石垣にガイドサービスがあることを知る人は少ない。

始めた頃のヒット率は、書いたことはないがモルジブに近いものがあった。1年ほど経つと3分の1に減り、原因について答えを出せずに、さらに2年が経つと、周りににわか同業者が増え、さらに悪化していった。

90年にはクルーザーを買って遠くのポイントに遠征を泊りがけで始めた。このことも日本では、海のルアー船の中では、ぼくのボートがもっとも早いだろう。

4年目にして、気が付いたことがひとつある。 GTのポイントを守るには、釣りをしないということなのである。この方法でしか、実はポイントの保護はない。

そこで、91 年から、ほとんどの宣伝活動、広告を意図的に止め、さらに、問い合わせには、釣れない話をすると、年間のアングラーが2分の1に減った。94年からは、11月から3月まで5カ月間を禁漁とし、釣りのメディアに出るときは、いかに難しいかを強調しながらGTを釣った。

一度、沖縄のGTの減少について書いたことがあったが、遊漁船業者、釣具店、プロの釣師から、非難と反発をうけたことがあった。

あまりの了見の狭さに驚いた反面、それが現実なのかとがっかりした。

 

真のGTフィッシングの魅力
13年目を迎え、我が石垣島周辺のGTフィッシングを見たとき、海底地形の難しさはミッドウェイの上をゆく。GTは10 数年にわたる釣師のいじめのおかげで、すっかり教育され、おいそれとルアーに飛び出してくれない。潮の流れ、根の形状、ベイトの位置、ボートのポジション、ルアーの色や形などあらゆる要素を読み切って狙って釣ることになる。
つまり、GTがいないのではなく、釣れないのである。
いないと釣れないとの違いが大きい事に気づかない限り、アングラーとしてもキャプテンとしても次のレベルには到底上がれないことも付け加えておこう。

だから、難しい釣りほど、アングラーにとっては面白いこともある。この面白さに魅せられて石垣島に10年通っている人もいる。たとえば池袋サンスイの山田隆さんだが、彼に言わせれば、
「どこで何匹釣っても関係なく、石垣で一匹GTを釣って半人前、3匹釣って一人前」だそうである。

つまり、まぐれで一匹、狙って2匹なのだろう。

 

シャビアニからムラクまで
今回の3日間釣行を書くなら、結果として、フェリドゥーからムラクにかけてもGTを多く釣ることができた。中でも、ムラクのチャンネル水深150mのところでヒレナガカンパチが釣れたことは、新しい発見であった。そして、フェリドゥーアウトリーフのけっこう浅いところで、クレイジースイマーにキハダマグロがヒットしたし、大きなハタがインリーフのベイトポール近くからトップに飛び出してきた。

が、北のシャピアニから南のムラクの端まで、400kmの間を10日間かけて釣り歩き、昼は、毎日シュノーケリングでサンゴ礁のエッジを見たけれど、98年に起きた世界的な海水温上昇が引き起こした、サンゴの白化現象がはげしく、それに1年経った今回は、うすいコケのような海藻が死んだサンゴに付着して砂漠化が進んでいた。モルジブ全体をこの釣行で考えることは難しいけれど、このサンゴの死滅がGTの減少原因のひとつになったに違いない。

 

オジイの一言
かつて石垣島で83年から87年に起きたオニヒトデの大量発生によるサンゴ死滅は、3年で半分近くサンゴが回復した。が、今回の原因が、地球温暖化が引き金となっているとするなら、森林伐採や二酸化炭素との問題など、かなり根が深いだろうと思う。
話は変わるけれど、この原稿を書いている何日か前、石垣島の我家にガス工事のオジイが来た。

木の話になって、あれこれと島の木の育て方についてレクチャーを受けていると、確信めいたことを言っていたので、最後に紹介しておこう。
「最近は、お金持ちが増えて家を立派にする。ぼくは儲かるんだけど、木を切ってしまう。ほんとはね、人間は自分の吸っている空気の分だけ木を植えないといけないんだよ。これが人間として死ぬまでに最低やらなければならないことだと思うけどねェ〜ハアー」
今回はくどくどと四方山話を書いてしまった。独断と偏見があったら、平にご容赦あれ。

活躍したタックル

ロッド GIANT86  GTGAMET

ルアー CRAZY SWIMMER  LONG PEN

ライン  モーリス アヴァニ60Lb

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ワンダーブルー 03-5433-7221