トップページへimg

サムネイル94回

 

ヤップ島釣紀行

熱帯雨林とストーンマネーの島から

インターネットでのお誘い

“インターネット”便利なものが出来たと感じた。

例のスカイパーフェクトTV、釣りビジョンにヤップ島からコンタクトがあったのは、5月に”ニューカレドニアのGT“放映になった直後である。

「ヤップ島に“マンタ・レイベイホテル”というのがあって、そこからボートもガイドも全て用意しますので、ぜひ来て下さい。というメールが入っていますよ。」と遠藤ディレクターが電話の向こうで言った。

「ヤップ島って、ストーンマネーで有名な島ですよね?」

「そう!GTやジグは、このところ誰も来ないのでゆっくりと時間を取って来て下さいとのことです。もちろん、ビジネスクラスのシートも用意しますとのことですけど!どうします?7月の中なんですけど、日程はもう、決めてしまいました。

あとは、鈴木さんがOKだと言えばOKですし、NOと言えば誰か代役を立てですね・・・。」と半分脅かしのような連絡である。

「それって、何人か連れて行ってもいいの?」

「もちろんですよ。向こうは、どうしても鈴木さんに来て欲しいらしくて、大概のことは呑むとのことです。大丈夫ですよね?わかりましたOKですね!!名古屋からですよ。では、名古屋空港で待ち合わせましょう・・・。」と、電話が切れた。ヤップ島はパラオ島に行く途中の島というイメージが強い。

 

ヤップ島へ

というわけで、7月14日に名古屋からグアムに向かった。タイアップしてくれたコンチネンタルミクロネシア航空はミクロネシアの島々とハワイ・アメリカ・ヨーロッパと世界中に広がるネットワークを持っている。グアムには日本の主な都市から毎日コンタクトがある。

グアムで、シーマンの山本カツオくんとFISHERMANフィールドテスターの松本武雄くんらと合流してから2時間程のトランジットの後、パラオ島経由でヤップ島に入った。

ミクロネシア連邦は第二次世界大戦後、国連の統治国家となり、1986年に結ばれた自由連合協定で、アメリカと密接な同盟関係を結んだ。ミクロネシア連邦にはヤップ州の他に、コスラエ州、ポナペイ州、チーク(トラック)州と言う4州からなる。ヤップ島は、ルムング、マップ、ガキールトミール、ヤップの四島と周辺の小島からなり、合計面積は216平方キロメートルで、ぼくの住んでいる石垣島と、ほぼ同じ広さである。この四島の境は狭い運河で仕切られていた。多分、大きな島が侵食されて4つに分かれたのだろうと推察できる。その証拠に四島の間には豊かなマングローブ林が生い茂り、大きな魚は居ないものの、ターポン、テッポウウオ、ゴマフエダイ、トビハゼなどが生息している。

また、ヤップ人の祖先はミンダナオやカリマッタン島から、渡って来たらしい。だから航海術や天文学、釘をまったく使わない独特のカヌーの造船などに優れていたので、西洋諸国に発見されるかなり以前から太平洋の島々と交流と交換貿易を行っていた。1525年にポルトガル人の探検家ディエゴ・ダ・ロシア(Diego・da・Rocha)がヤップ島近くのユリシー環礁に上陸した。

1870年、スペインとドイツが領有権を主張したが、当時のローマ法皇、レオ8世の支持を得てヤップを含むミクロネシアはスペイン領となる。1899年、米西戦争に敗れたスペインはドイツに450万ドルで領有権を譲るが、1914年に第一次世界大戦が勃発し、日本がドイツ領ミクロネシアを占領した。日本の統治は第二次世界大戦が終わるまで30年間続く。ミクロネシア統治時代、日本は日本語教育を徹底させたおかげで、今でもお年寄で日本語を話す人もいるし、“運動会、用意ドン!”など地元に溶け込んだ日本語もある。ヤップ飛行場はゼロ戦や爆撃機の不沈空母として、旧日本軍によって使われた。ちなみに旧飛行場で撮影したゼロ戦は零式艦上戦闘機52型のように思える。(三菱、中島栄エンジン)

戦後、アメリカ合衆国は国際連合の戦略区域信託統治領として、ミクロネシア統治権を得た。1979年100年間に及ぶ外国支配からヤップは、ようやくミクロネシア連邦の1州として独立した。

朝の出航風景

 

美しいプチホテルとマングローブ

ウォーターフロントに浮かぶ“マンタ・レイベイホテル”は、そんなに大きくないけれど、スタッフが暖かく室内の清潔さも保たれ、居心地の良いホテルである。また、ここのピザとペッパーステーキはなかなかで、朝に出されたマフィンのエッグサンドは格別に旨かった。

7時30分、ホテルに隣接した桟橋から2艇のボートで出航した。ヤップ島は中部をマングローブの運河が島を分けている。

マングローブは、石垣島でもよく見かけるヤエヤマヒルギが水際をせめぎあっていた。河口部から水路を登っていくと、人工的に作られたものに違いない直線的な運河が現れ、マングローブ林は消え、熱帯林がそのまま覆い被さっていた。

「マングローブにバラムンディなんか、居ませんかね?」と遠藤君。

「テッポウウオが居るからね、死滅回遊で小さい奴が居るかもね?」

丹念に運河際や木々の根元にルアーをキャストしたがあまり良くない。

通り抜けるとまた広いインリーフに出たのでキャストする。

「入れ食いですね!」カメラを持っていた遠藤くんが驚くぐらい、つぎつぎと小魚が釣れた。

その内、大きな当りがきて、ラインは出された。

「ナポレオンですよ!」めったに釣れない魚が上がった。

「これって成長が遅いですよね?」と遠藤君が聞く。

彼は北里大学の水産学部で魚類学を学んだ後、伊豆の水族館、小浜島ハイムルブシリゾートで10年を過し、釣りビジョンに入社した変り種ディレクターである。

彼は解っていて聞いているんだと思いながら、「5kg以上の成魚になるのに10年はかかる。鱗がデカくって、ベラ科、和名メガネモチノウオです。」と、カメラ目線で答えた。

小物釣りで釣れたナポレオンフィッシュ(メガネモチノウオ)

 

GTにトライ

ヤップのリーフは、ほとんどドロップオフはなく、ダラダラとスロープになっている。ボートは波打ち際で寄せてから、キャプテンはキャスティングの合図をした。

「どっちに投げるんですか?」と聞くと

キャプテンのアレックスは砕ける波を指差した。水深は1mもあるだろうか、時々引く波で更に浅く、キャストしたルアーも根掛かりしてしまいそうなのである。

「鈴木さん、どうします?」とカメラの向こうで遠藤君がつぶやく。

「ヤップに入ればヤップに従うよ。」と、ぼくはそう決めると砕ける波の更に向こうにキャストしてから、ルアーを素早く引いた。ルアーほどの小さな魚は集まって来るけれど、GTの姿は1時間やっても目に入らない。

1度、ホテルに帰ってから3時にまた、出航した。今度は南端を目指すことにした。

沖の潮が風に逆らって流れているので、大きな潮波が立っている。ボートはシャローなアウトリーフを進み、1時間ほどで南端に着いた。そこから、風を上手く利用して、ボートを流す。相変わらず2mほどの浅瀬にキャストを繰り返す。

何投か目で小さなGTが釣れたが、サイズのデカイのが出て来ない。

「深い所をやったことがあるか?」とアレックスに聞くと、

「ジグだけ、GTはまだ」とカタコトの日本語で答えてくれた。

ヤップのGT   YELLOW Tail BG70   S−POP150Short

 

沖の根

次の日、昼休みに山本・松本組のボートが近づいてきた。

「鈴木さん、このリーフの沖にボーッとした浅瀬があります。多分、水深20mぐらいだと思うのですけど、そこでデカイGTがバイトして、喰いが浅くて、バラシちゃいました。」と山本君が悔しがる。

「その隣で、小さいGTは何匹か釣れましたよ。」と松本君が続けた。

午後、とにかく、その根にトライしようということになった。

リーフエッジから500mぐらいは、ゆうに離れている。水深も一度5〜60mになってから、また、浅くなりリーフエッジに沿って長く続いていた。

多分、1万年ぐらい前の海進が進んで行く途中のリーフエッジに違いない。

海は、海進と海退が15万年間、2〜3万年ごとに繰りかされている。

ちなみに、2万5千年ぐらい前(ウイスコンシン氷河期U)、今の大陸棚の水深100mぐらいまでは陸だったわけで、その後、水深が上昇(地球が、温暖化)して、ここ6千年でまた、水深は2〜3m下がった。つまり、海退が進んでいる。

リーフを見る時、古いリーフエッジが根となって沈んでいる場合が多い。沈根のエッジなんか見つけて、潮でも当たっていればGTは連発することになる。

ヤップのGT 小さいけれどパワフル MONSTER・CC70 LONG PEN100

 

水中撮影

1投目、ロングペン着水と同時に海がざわめいた。

「何匹か追いかけています。キラキラしてますねぇ」と遠藤君がカメラ越しに言う。

「水中撮影を用意させますので、鈴木さんは魚を惹きつけて下さい。」と続けた。

魚は水中を切るように左右に激しく動く。その都度ナイフのようなシルバーのボディがキラキラと光って美しい。

「バラクーダの群だね、このまま続ける?」

「続けて下さい。水中撮影でバイトシーンが撮れたらスゴイですよ!GTだともっとスゴイのですが、バラクーダでもスゴイ!」と遠藤君は興奮している。

棒の先に小型水中カメラを付け、海中に突っ込んで、その上の海面でルアーを8の字を書くように動かす。

「スゴイです!あぁ!トッ撮れました!もう一度、バイト・フッキングさせないで下さい。繰り返して、お願いします。」となかなか難しいことを言う。

何投かしている内に、バラクーダはどこかに行ってしまった。

「出そうですね・・」

「出そうですね・・GT・・・」と言っていると、ロングペンにドカンッ!80lbラインは少し出されて、直ぐに止まった。そこから、魚はまた走り出したけれど、ラインが出る前に外れてしまった。

「鈴木さん、どうしました・・?」

「外れちゃったぞ!」

上がってきたロングペンの4/0のフックは飴の様に曲がっている。

「フックも作らなきゃダメですかね?」遠藤君がおかしなことを言う。

「でも、魚は濃いね。これで、魚探がしっかりしていたら、ジグだってスゴイだろうね。」

「“ホテルのオーナーが魚探は買うよ”と言っていました」

「この島、何回か来ないと解らないね。」とぼく。

「スズキ、スコールが来る!」とアレックスが沖を指差す。

「スズキさんでも、雨降るんですね。」

「振る時は、激しいよ。ズブ濡れになる。」

試作ジャケットを着て雨風の中をホテルに逃げるようにして帰った。

スコール

 

 

 

 

森の道

ゼロ戦と古代の道

撮影を終えてから帰るまで1日あったので、アレックスを誘って島内観光に出かけた。

旧日本軍の飛行場跡では、中島飛行機製52型ゼロ戦を見た。先日亡くなったぼくの父親が戦時中に中島飛行機でゼロ戦を作っていたせいか、懐かしさ覚えた。しっかりしたアルマイトや金属加工の技術に目を見張った。60年も経っているのに錆びひとつない部品を見ていると、これをあのころ平和のために使ったなら、日本は今ごろ、どうなっていたかなと、ふと思った。

しばらく走ってバスは、今度は森の入り口で止まった。

その道は熱帯雨林の中に溶け込むように続いていた。まるで、歩いていると、京都の寺小道を散策しているような錯覚を覚える。左右所々に南洋竹や5mはあるシダ類、ヒカゲヘゴがうっそうと茂り、その上に常緑樹の森が覆い被さっている。

「下りの道は滑りますよ。」とアレックス。

「こんな道が、あっちこっちにあるんです。とっても古い道です。」と続けた。

石道の幅は1.5mぐらで、平らな硬い玄武岩石が引き詰められている。石の表面は森の湿りで濡れ、苔むしてヌルヌルとしていた。道は2kmほど続き広場に出た。

 

  旧日本軍飛行場跡でゼロ戦の残骸

 

ストーンマネー

長方形型の広場は表面が平らな石が敷き詰められていて、規則正しく、石が墓標のように立たされている。

「あれは、背もたれですよ。酋長が真中の奥で、左右に長老が座り、その周りを男達が取り囲む。ここは言わば、集会場です。」とアレックスが説明してくれた。

その横に直径1m以上で真中に穴の空いている石貨幣が並んでいる。

「あの石貨幣は、今でも使っています。冠婚葬祭や家を建てる時など・・」

「大きいのは、どのぐらいですか?」と尋ねると

「直径2mを超えるのもあるみたいです。ただ、ストーンマネーの価値は大きさではないのです。その石貨幣を運んできた時の物語が、石ごとに語り継がれています。」

「パラオ島まで、男達が採りに行って切り出して大海を渡る。その時に、起きた苦労話が価値を決める・・・。」と続けた。

ストーンマネーは、石の貨幣である。“ライ”と呼ばれ、驚くことに、400km以上離れているパラオ島まで、カヌーで取りに行ったのである。あくまで根拠の無い推察であるが、始め道のための石採取であった。ある日、テーブルにも使えそうな、みごとで平らな大きい石が取れた。

島民は石に価値を見出し、やがてストーンマネーになったなどと、ぼくは想像した。

また、バスに乗って1時間ほど走ったところにメンズハウス(男小屋)がある。アレックスが入ろうと誘ってくれたので、中に入った。薄暗い室内は鋭く尖った天井は高く、床は石や丸太で高床になっていて、南洋竹を半分に割った凸部が波上に敷いてある。アレックスと2人、ごろりと横になって天井を睨むと、冷気が体を取り囲むと睡魔に、襲われ寝てしまった。

アレックスとメンズクラブへ

 

タックルの問い合わせ

FISHERMAN・・09808-3-5318

SEAMAN・・・・・・0792-45-3412

旅の問い合わせ

ワンダーブルー・・03-5791-5686

釣りビジョン・・・03-5765-7552

 

活躍したタックル

ロッド・・MONSTER CC 70  GIANT 82  YELLOWTAIL BG 70

ルアー・・LONG PEN 100 / 170   S-POP150 / 170

PEライン・・MaxPower80Lblb

ショックリーダー・・SUPER STEALTH 170Lb  バリバス170Lb