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サムネイル33回

南大東島釣紀

 

 

 

 

港のクレーンが動きだすと、僕等の乗っている小さなボートは、空中に浮きはじめた。

「大丈夫かなァ」と同船している水田君が下を覗きこんで言う。

南大東島は、那覇から380km,北側に北大東島がすぐ近くにあるものの、周囲を

1000m以上の深海で囲まれた絶海の孤島と言って良い。この島は、中央部がへこんでいて、まわりを切り立ったサンゴ石灰岩で覆われた、典型的な隆起珊瑚礁の島である。

かつては、モルジブあたりで、良く見かける環礁であったが、この数万年の間に、地殻や海面の変動で10〜20m隆起することになった。島の中には、あちこちに鍾乳洞や、

海とつながっている(潮の干満によって水位が変わる)池があって、環礁時代に侵入してきたものが取り残された、陸風のオヒルギや、体の部分が金色や白色の羊毛の様な毛で覆われている、ダイトウオオコウモリ、ハワイや小笠原の植物、アツバクコや、オーストラリア、マリアナ諸島の、ボロジノシキノウ等が、アダンやシフンラキと共に群生していてそれは、みな珍しい天然記念物である。

 

長い間、海鳥の楽園だったこの島に、人が住むようになったのは、明治に入ってからである。村発行の南大東島村勢要覧によると、「古来、南大東島は、琉球人の間でウフアガリ島として知られていたそうであるが、明治18年、沖縄県庁の探検により、日本国標が建てられ、沖縄県に所属した。」とある。それから明治33年に、八丈島から23名入植者が入り、本格的な開墾が始まったので ある。以来、この島は、サトウキビの島として知られるようになり、現在に至った。「12月から3月までは、サトウキビの収穫が始まると、僕の勤めている製糖工場はものすごく忙しくなるさー」と仲田船長は言う。今回は、那覇の寄宮フィッシングの仲田君の父上にお願いして、船を出してもらっているわけで、もう一艇のボートの船長、野村さんも、製糖工場の職員である。

 

何艘かの漁船が沖に見える。みな小さな船外機をつけた物ばかりで、やはりクレーンで、いちいち上げ下げするのであるから、こうなるのであろう。

「一年中、キハダマグロは、島のまわりをぐるぐるしてるから、しけてなければ、いつでも釣れるよ。前はね、沖にパヤオをしかけてみたのだが、あんまり遠すぎて、誰も行かなくなって、やがて台風で流れてヨ。まあ島がね、パヤオみたいなものさァー」

と仲田船長は、大声で笑った。   

「毎日、島のどのへんにキハダがいるか、見当がつくから、そこにムロアジを釣って、生エサをつけて旗の立った、丸いウキをつけて流すとヨ、ドボンとウキが沈んだら、魚がかかったわけで、それを引き上げるわけ。昨日はそれに150kgのカジキをかけた海人もいたさァー」と続いた。

 

 

GT.を狙っていると、ダツが群れになって逃げまどっているところがある。前で投げていた金子君にバイトがあったものの、途中ではずれてしまった。

「今のでかかったみたい」と無口な金子君がポツリと言った。

お昼をすませると、風でボートが沖に流されていた。野村さんがのぞきめがねで見ながらここは、良いポイントだと言うので、桜田君が面白半分でジグを流してみると大きなアタリがあった。どんどんとラインが出されるのを、やっと止めて、一気にフットポンピングで上げてしまった。20kgはあるサワラである。 

「よくサワラを釣るね」と僕が言うと、本人も気がついたらしく、

「いや、与那国でもサワラ、ここでもサワラ、どうもワーフーの桜田ってところですかね」

と笑う。

続けてカンパチ、またサワラと釣れだしたが、どんどんとかなり深いところまで流されると、アタリは止まってしまった。

海の中に、乱暴な言い方だが、富士山が沈んでいるようなものだから、ちょっと流されると、どうしようもなく深くなってしまう。かつてはこの島は、海底火山であったろうし、地球のプレート移動によって、北大東島ができて、それから南大東島が出来上がったと思われる。火山の上は、波・風・雨によって平になり、その上に珊瑚礁が発達した。太平洋の多くの環礁や、島々がこのようにしてできたのだろうと推察出来る。

 

 

夕方、港に帰ると、またクレーンで船を持ち上げるわけで、船にはつり下げ用のロープがいつも付けっぱなしになっている。 

「昔はこんな入江みたいな港は無かったから、難破船のマストで作ったクレーンで、10m以上高さのある崖っ淵みたいな港から降ろしていた。」

入江といっても、固い石灰岩盤を、ダイナマイトを使って、数十mも掘り下げて、更に

それになだらかな道を作り、船上げ場を作ったのだから、大変だったに違いない。

「台風が来ると、何日も船が入らなくなって、村のお店には、何も無くなってしまうことがある。」と話は深刻になってしまった。

週一便の船と、一日2便の、12名乗りの小型機であるからして、ここの交通の不便さは察するにあまりある。

 

 

 

夕方、仲田さんが僕たちを家に招待してくれたので、遊びに行くと、近くに大東犬がいた「本物は、もうちょっと足が短いが、こいつは今いる中で、一番近いね。放し飼いにするもんだから、夜遊びがすぎて、みんな雑種になっちゃうんでね」と言って笑った。沖縄の夜型社会は、犬の世界も同じなのかなと思うと、僕もつられてワンテンポ遅れて、笑ってしまった。琉球犬は、小型の日本犬に近く、勇猛さと敏捷性から、シシ狩りによく使われる。大東犬も、こいつを見ている限りでは、なかなか利口そうな顔をしていると思った

ビールを飲んでいると、仲田さんの奥さんが、大東寿司を持ってきてくれた。これは、サワラの肉を薄く切って、ミリン、醤油、その他秘伝のタレに漬け込んだものを、握り寿司にしたものである。

「サワラは大きければ大きいほど、この寿司はうまくなるよ。」と、遊びに来た野村さんが言う。 

 

 

 

南大東島は、江戸相撲や、山車、みこし等、始めに入植した八丈島の文化を色濃く残し、

その後、多くの沖縄の人々が入ったことから、沖縄(ウチナー)の文化と大和(ヤマト)文化が混じり合った、特異な文化を作り上げようとしている。

「あしたは、少し早起きして、キハダマグロを狙ってみようか。」と仲田さんが提案してくれた。

「ムロ用の、良いサビキを送ってもらったから」と野村さんも言う。

僕等もキハダを釣ってみたくなったので、そうしようということになってしまった。子供たちも交えて、近所の人も入って、夜の宴は、夜更けまで続いた。