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サムネイル95回

 

パプアニューギニア・ビスマルク海の島々A

ニューブリテン島ラバウル周辺のGT

 

さらばラバウル

「さらばラバウルよ 又来るまでは しばし別れの 涙がにじむ 恋しなつかし あの島見れば 椰子の葉かげに 十字星 ・・・」は太平洋戦争末期、1944年の歌謡曲である。

昭和29年に東宝映画“さらばラバウル”のエンディングソングで一躍有名になった。ちなみに、監督は本多猪四郎、主演、池部良と岡田茉莉子である。

1942年1月23日、旧日本軍は南太平洋の戦局を有利に進めるためにラバウルを占領し、東西南北の4つの飛行場と軍港を造り、陸海軍合わせて10万人の兵を駐屯させた。ニューギニア本島に旧日本軍が侵攻したのは、

日本を中心にしながらアジアをひとつにしようとした大東亜共栄圏構想による。

開戦当初、ハワイ真珠湾で米太平洋艦隊を壊滅させ、順調に勝ち進んだ日本は、さらにソロモン諸島に進出していく。これはフィジーやニューカレドニアを占領することによって、アメリカとオーストラリアの補給路を絶ち、

オーストラリア占領という妄想があったからである。

が、アメリカ、オーストラリア連合軍の反撃が直ぐに始まると、米機動部隊により大打撃を受けミッドウェー海戦では、日本海軍の主力艦が消滅したと同時に、ニューギニア戦線でも制海空権を失い、武器、弾薬、食料の補給が難しくなる。が、日本の大本営は強気な戦略を遂行し、悲劇的な敗退と玉砕が繰り返されてゆく。

美しい夕日

 

マンゴー通りのお嬢さん

関西国際空港から夜の便で、ニューギニアの首都ポートモレスビーに向かう。

7時間あまりのフライトは、9月に入ったということも手伝ってガラガラである。朝5時に到着すると、直ぐに市ノ川くんが手配してくれたホテルで仮眠を取った。

午前10時、我々はポートモレスビー国内線ターミナルに向かった。

「少し寝るだけで、随分違うでしょう。」と彼は言う。徹夜のフライトの後は1日中気だるい体を持て余すのだが、彼の配慮のお陰で、普段と変わらない気分でいられる。ラバウルは国内線に乗り換えてから1時間で到着した。

飛行場からカバカダ湾のホテルまで1時間30分、関空から一緒だった“ラバウル方面慰霊団”とホテルのマイクロバスが同じになった。

「少し、戦争の話とバスの外の風景を説明しながらホテルまで行きたいと思いますが、耳障りでしたらお許し下さい。」と添乗員の新垣さんが、ぼく達に遠慮して言う。

「問題ありません。逆に、ぼく達も興味がありますので聞かせて下さい。よろしくお願いします。」と答えると、狭い車内は一気に和んだ。

通り沿いの名所旧跡を新垣さんが話し始める。旧日本軍の飛行場跡、クレーン船の残骸、今も噴煙を上げる活火山や津波の話で、車内はかなり盛り上がった。ホテルに着いてから夕食が始まり、ぼくたちも仲間に入れていただき、話を聞いた。

「マンゴーの並木道に中国人がやっている喫茶店があって、そこの娘さんが綺麗なんでね。ぼくじゃないけど、日に3回もコーヒーを飲みに行った人もいてね・・・。」と、ぼくの目をジット見て言う。既に80才近い、旧日本軍の元兵士は少年のように目を輝やかした。

「その人は戦後、オーストラリアに嫁に行って孫がいるらしいよ・・・。」と続けて笑った。10代後半でラバウルに来て、直ぐに戦局は悪化していたに違いないけれど、初恋はレモンの味がするのだろうか?ぼくは思い出せない。

この人達は今でも甘ずっぱい香りが胸に湧いてくるのであろう。

マンゴー通りはラバウルの銀座だった。通りは湾に沿って南北に市内を貫いていた。その東側の1本隔てた通りに中国商店街あって、多分そこにあった喫茶店に違いない。

「イカ刺し食べるか?」とまた、誰かが。

ここで言う“イカサシ”とは、陸のイカのことである。つまり、発芽する直前のヤシの実を2つに割って、果肉をスプーンで薄く削ぐ、それにワサビ醤油を入れると、烏賊の刺身そっくりな味になる。当時、彼らはこれを“イカサシ”といって食した。

「イカサシ用のヤシの実を選ぶのは、結構難しい。黄色い奴が1番で・・・・。」と彼は続けた。

 

写真左:移動中はトローリングをした。  写真右:釣り上げたGT ルアーLONGPEN100

 

タリリ島へ

翌朝8時にホテルの前の浜から出航した。ボートは40フィートのクルーザーである。13ノットで3時間ほどニューブリテン島に沿って西に走ると、タリリ島が見えてきた。タリリ島はニューブリテン島の北西端にあって、海鳥と岩と熱帯林の無人島である。

午後3時ごろようやく2時間止まっていた潮が動き出した。途端に魚の活性が上がってきた。

岬のぶつかり合う潮が複雑にリーフに絡み付いている。

「GT出ますかね?」とエガワ君が空色に光る沈根を見て言う。

「あそこにいるよ!ベイトの動きもいいしね。」2方向の潮がぶつかり合っているところを、ぼくは指差した。

「でも、届きますかね?」と言って、エガワ君はいつもより、ルアーの弾道を高くして投げた。

ルアーは風に乗ったらしく、いつもより10m近く伸びて落ちた。

「いい所行ったね。出るよ!出るよ!!」ルアーが動き始めた途端、黒い影が横から近づいて、バイトした。

「大きいよ!」

「大きそうです!!」と、エガワ君はフッキングに入る。

GTは、水面でバシャバシャと派手に水しぶきを一通り上げてから走り出した。

エガワ君はロッドを少し寝かせてGTの動きを制御すると、GTは潜り始めて、どんどんとボートの方に近づいて来る。3分後、GTは浮いて、ランディングした。

「居る所には、居ますね!」とエガワ君。

「そう!居る所は居るから、ラバウルのGTも面白そうだね。」

「ここは、小さいGTがかなり釣れるし、自分で考えてキャストすると、ちゃんと結果が出るからイイですね。」と、エガワ君が続けた。

ラバウルを出てから2時間近く走ると、ニューブリテン島の岸から沖10kmまでは、円や長細いサンゴ礁が点在している。ただ、水深は一定では無く、大潮の干潮だと干上がってしまう根や、優に水深10mはありそうな沈根的なものもある。あまり決め付けたことは言う気は無いけれど、このちょっと深いサンゴ礁の方が潮が通っていて、ヒット率も高い。

潮の流れは、大潮だからといって1日中激しい訳では無い。大潮の潮止まりは長い時は3時間にも及ぶことがあって、赤道付近のGTFを考えるなら、中潮や小潮の方が良いのかも知れないと、ふと思った。

 

写真左:エガワくんの釣ったGT S−POP170HB  写真右:市ノ川くんの釣ったGT S―POP110

 

ロングペンとイソマグロ

海は北東の海風と同調した様に、波も立てずに所々に海水の盛り上がりを見せている。リーフエッジは、“ドロップオフ”というより“グランドキャニオン”をそのまま沈めた様に、ものの10mも離れると水深100m近くに達している。要するに、東京タワーの第2展望台辺りをチョン切って、海に沈めたような地形なのである。

ボートは、キャスティングの飛距離を上手く計算して動いてくれる。ぼくは、リーフ際の沸き立つ海面にルアーをキャストすると、キラリと横腹を光らせて魚がバイトした。魚はフルパワーで、ラインを引きずり出したが、20m走ってから止まった。強力な第2世代PEラインは6号で80lbを越え、ショックリーダーはソフトでクリアーなナイロンラインの開発によって新しい時代になっている。ロッドは“ハイカーボンコンポジット”の時代から、軽くて粘りある素材で作られていて、これも第2世代なのである。

ゆっくりとしたポンピングで魚を引き寄せると、魚はあきらめたらしく潜る事無くボートに寄って来たが、目と目が合った瞬間に再び沈んで走った。2分後リア-デッキで口にリリースギャフを打ってランディングした。15kgサイズのイソマグロである。

「イソマグロは、ポッパーに出るんですね!」と、エガワ君が感心する。

「パプアでは、よくヒットするよ。去年のマダンでも何発か出ているけれど、バーブレスだと口の中が柔らかいから、直ぐに外れてしまう。この魚はラッキーだね。」

「魚ですか?」

「いやいや、ぼくが・・・!」

写真を撮って直ぐにリリースした。

夕方、船長はリーフとリーフの間に、ボートを係留させた。日没は思ったより早く午後5時半、太陽は水平線に呆気なく沈むと、見事な夕映える雲が見えた。光が当たっている部分は燃えるオレンジ、影は静寂の灰紫色である。

夜は、キャプテンのジョンが腕を振るってくれた。

「ぼくの親父は中国人で戦争中もコックをやっていた。だから、ぼくも2ヶ月だけ、日本の学校に行ったよ。・・・日本語・・覚えていないね。息子が8名いて、みんなコックになった。ぼくの料理、美味しいぞ・・。」と言ってジョンは笑った。

 

写真左:釣り上げたイソマグロ ルアーLONGPEN100  

写真右:鳥山にキャストすると直ぐに何かがヒットする。スマカツオとスパニッシュマッカレル

 

慰霊団との再会

3日後の朝ホテルに帰り、その日は戦争の遺跡や博物館を回った。夕方、慰霊団一行がブーゲンビル島から帰ってきた。

夕食会にお招きいただいた時、添乗員の新垣さんの配慮で、大きい五色海老やマングローブクラブ(ノコギリガザミ)が出た。

「俺達は、あまりご馳走は食べれない年齢だから、若い人たちに食べてもらうよ。」と、ぼくらの前には海老蟹の山が出来た。宴が進むと無口だった人が、ポツリポツリと話し始めた。

「ぼくは海軍だったので輸送船に管状爆撃機を12機積んで、ラバウルに来たんだ。当時は、まだ日本が勝っていたから爆撃も攻撃もない島に着いた。」また、他の人が語り出す。

「ぼくは、駆逐艦でね当時30ノットぐらいのスピードが出ていて、艦の後ろにこんな具合にスクリューで海水が盛り上がる。」と両手を大きく天に向いて開いた。

「その内ね、どんどん船が沈められてね、乗る船が無くなってしまったので、ブーゲンビル島に行かされて・・・

そりゃあ、ひどかった。4万以上の人が戦死した。でもね、ぼくは今日までブーゲンビル島に行って来てね、56年間のモヤモヤが“スーッ”と取れて、サッパリしているんだよ。気持ちが静かでね。もう、久しぶりに爽やかだねェ・・・。」

「家族には、こんな話はしたこと無いし、これからもするつもりはないけれどバカな戦争だったと一言で片付けられない・・・。」と続けた。

キャストとファイト  ロッドGT.GAME.RS

 

ゼロ戦の翼

昼に回った戦争博物館に展示してあるゼロ戦の翼を思い出した。

“戦争の最後の時期はジェラルミンが無くなって、木材やベニアで一部を作った。”と、死んだ父の言葉が浮かんだ。翼の一部から木部が露出していて、それに触るとポロポロと崩れて床に落ちた。まるで、これを作っていた父達や、整備していた整備兵や、撃墜されて死んだであろうパイロットの涙のように、ゆっくりと床に落ちて行くが、落ちた木片は乾いてそこにうずくまっていた。

多くの若者が戦争という悲劇に青春を捧げ、次々と死んで行った。残された者や生き残った者に、安らぎを与えるのは悲劇の遺品と古き思い出、熱帯雨林の木々、ゴソゴソとして今も噴煙を上げている火の山々、ホコリ立つ火山灰、そして青い海なのかも知れない。青年の目を持った老人達の背筋は我々よりも、遥かに真っ直ぐ伸びていた。

 

戦争の遺品 写真左:ゼロ戦のものと思われるエンジン 写真右:クレーン船の残骸 もともとイギリスがシンガポールで

使っていたものをラバウルに運んで、旧日本軍が使用していた。爆撃で破壊された。

 

 

写真左:エガワくんの釣ったナミフエダイ ルアーLONGPEN100 

写真中央:釣った魚は自分たちでハンドランディングした。

 

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活躍したタックル

ロッド・・GIANT 82

GT GAME T RS

      MONSTER CC 70

ルアー・・LONGPEN 100

       S-POP150 BH

        CRAZY SWIMMER 170

PEライン・・MaxPower 80Lb

ショックリーダー・・FISHERMANスパーステルス170Lb

活躍したルアー